美咲の教室

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美咲の日記11

もしかして孤独?

 前々から気付いていたが気が合う人が少なくなっている気がする。高校まではたくさんの気が合う人と出会い、今でもたまにであるが交流を続けている。それが奇跡だったのではと思うようになってきた。特にそれを感じるのが笑いのツボだ。何が面白いのかわからないところでみんな笑っている。しかしこれは明らかに愛想笑いであること、つまり相手に気を使った笑いであることが多い。私も愛想笑いくらいはできるつもりでいる。しかし、自分の中では周りと違って愛想笑いにすら値しないことが多い。

 

愛想笑いは意味がないっしょ

 愛想笑いをして、無理して人付き合いをする必要があるのだろうか。そこで会話が盛り上がってもうわべだけの会話であり、うわべだけの友情である。やはり人付き合いをしていくうえでは真に笑いたいし真に楽しみたい。しかし最近その真に笑える人と出会えなくなってきている。

 

ここでちょっと客観的に・・・

 ここで少し落ち着いて、客観的にものごとを見てみよう。まず本当に愛想笑いであったか。愛想笑いでないと仮定する。そうなると本当に孤独だ。周りとは違う分野しか面白いと思えない。旧友以外とは一生ひとりでしか楽しめないということになる。無理して合わせることはないであろうがこれも困りものである。

 

目上のひとのジョークには笑うのが常識?

 とくに感じるのがこの場面。プレゼンテーションなどで目上のひとが軽く冗談を言ったとき、たいていがどんなにつまらないものでも笑ってくれる。確かに冗談を言って無反応だと相手もしゃべりずらくなるであろう。この愛想笑いは生産的なものである。また、その目上のひとに気に入られようと無理に笑っている様子も見られる。確かに自分のジョークでみんなが笑っているなかひとりだけ笑っていなかったらそのひととは接しずらい。実際それで損したときは何回かあった。就活のイベントではひとりだけつまらなそうにしていたのであとから「つまらない内容ですみません」と言われたのだ。もちろん今更言われなくてもわかると思ったものはあったが、参考になったこともあった。自分のなかではそれなりに感動していたつもりだ。それなのに「来た意味ないな」というのを感じ取らせてしまったのだ。

 

自分の気持ちに正直に、けど笑いは嘘でもいい?

 自分の気持ちに正直になった方が結果は満足行くことが多い。そこには自分の意思があるからだ。しかし笑いだけは違うように感じた。やはり自分が話しているときは相手が笑っているときと無表情とでは明らかに前者の方が話しやすい。笑顔の相乗効果とよくいい、笑顔がより笑顔を産みだすのは想像に難くなく、多くが経験していることであろう。ここで気付いてしまうが自分は愛想笑いが下手なのだ。

 

元々下手か下手になったか

 それは定かではない。ただ高校までは笑わせてたし笑っていたし、愛想笑いが必要なかった。つまり今初めて愛想笑いが必要な環境に直面していることになる。このことから推察するに、周りの者たちは愛想笑いが必要な場面に多々出くわしていたのだろう。つまり真に笑い合える仲間とうわべなら笑い合える仲間を持っていたのである。ここで後者のうわべで笑い合える仲間しか持っていなかったというのは少ないと思う。自分の経験上、周りの者たちは普通に友達としゃべって愛想笑いでない笑いをしていたからだ。しかし出会い得る、愛想笑いが必要な場面というのが思いつかない。部活の先輩?先生との会話?などであろうか。研究しがいがありそうだ(実際、コミュニケーションは研究されている分野なので「愛想笑い」というトピックはありそう)。

 

長々としゃべったが・・・

 私が愛想笑いができないのは「そのひとにはそれ以上面白いものは期待できない」と思ってしまっているのかもしれない。笑顔の相乗効果が起きたとしても意味がないだろうということだ。もちろん自分に嘘を付きたくないのもある。面白くもない冗談の連発をすべて笑っていたら疲れることは目に見えてる。しかしこういったひねくれた考えで無表情をしていると無表情の相乗効果というのも表れてくるだろう。一番良いのは自分が盛り上げることかもしれないが自分にできるか、あまり自信はないものである。